2015年11月25日(水)ほっこりカフェ

 本日のほっこりカフェではお客様3名、スタッフ5名の8名が出席しました。

 カフェでは恒例の「み言葉の宝石」(10)を紹介し、み言葉の内容を説明しました。
 
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」
新改訳聖書 詩編46編1,2節)
 新共同訳では「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも」(詩編46:2,3)

 「ルターの詩編」と呼ばれる聖句で、ルターは宗教改革においてさまざまな不安を覚える時にこの詩編を愛唱したと言われています。  ルターはこの詩編をもとに作詞作曲した讃美歌は有名(賛美歌267番「神はわがやぐら」、讃美歌21では377番、聖歌453番〔古今聖歌233番〕)。
 
 その後、ルターの作った聖歌を皆で歌い、さらに信徒さんの好きな聖歌をいろいろと歌いました。
 初めての歌う曲もあり、新鮮で、学び多いと時となり、今後、毎月第4のほっこりカフェの時に聖歌を歌う時間を取ることとなりました。
 今回もおしゃべりをして、楽しく、ほっこりして、感謝でした。

 




  

2015年11月18日(水)第2部 「聖書から人生を学ぶ」とほっこりカフェ

 本日、ほっこりカフェの第2部「聖書から人生を学ぶ」(マタイによる福音書25:14〜30)を開催しました。

 今回はバザー後と雨の影響もあり、参加人数は少なく、ノンクリスチャン1名、クリスチャン5名の合計6名が参加しました。
 
 聖書の箇所は有名なタラントンのたとえで、いわゆる才能、能力、賜物を意味する英語のタレントはタラントンから来ています。
 聖書の1タラントは注釈では6000デナリとあり、1デナリは当時の労働者の一日分の給料に相当。一日1万円と見積もれば6000万円、安く見積もって5000円としても、およそ3千万円という金額となっています。
 この文脈で言うと、15節は「彼は、おのおのその能力に応じて、一人には1億5千万円、一人には6千万円、もう一人には3000万円を渡し、それから旅に出かけた」ということになります。
 1タントンというとわずかな金額をイメージしてしまいがちですが、そうではなく、莫大な金額を任せられたということができるでしょう。
 この1タラントのには、それだけすごい大金を管理、運用できるだけの能力もありましたし、十分な実績もあって、信用もあったということが言えるのではないかと思います。
 もし、信用を置けない人だったら、主人はこの男に1タラントを託さないはずだからです。
 ところが主人が戻ってくると、この男は『ご主人様。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました…』と主人への信頼も愛情などを理解しようとはせず、ただ地面に埋めてしまうのでした。
 しかし、二人の僕は「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と言われているように、賜物の大小に関係なく、自分に委ねられたものに忠実だったのです。

 タラントンのたとえは一般的には「神から与えられ、預けられたもので、生かして用いることを求められているもの」と考えることができるが、しかし、本質的には「神から注がれた愛の大きさに気づいて、その神の愛にどう応えたか」というメッセージがあります。
 つまり、そうした神様の愛、恵みを託された私たち人間がその神様からの愛や恵みに気づき、恵みを地面に埋めてしまうことなく、感謝し、応えることが必要だということが言われているのです。
 
 今回の感想では、1タラントンの男の気持ちがわかるという感想や才能や能力は人と比較するのではなく、また5タラントン、2タラントン、1タラントンと決められたのは神様であって、人が人に対して才能や能力を決めることではないという説明をしました。
 





 ほっこりカフェではお客様3名、スタッフ3名の合計6名が出席しました。
 少人数でしたが、暖かな雰囲気とおしゃべりに花が咲き、楽しく、ほっこりして、感謝でした。

2015年11月15日(日)教会バザー

 11月15日(日)9時からの聖餐式後、11時から14時まで2015年バザーが開催されました。

 前日は雨により、外でのテント作業などが大変でしたが、しかし、当日は天候に恵まれて、気温が高い中でバザーが行われ、感謝でした。
 バザー開始前から多くの家族連れ、新しい方々などが来られて、根年々、教会バザーが広がっていると感じました。

 バザー中も、ひっきりなしに人の行き来があり、また地域の方や近所の方々、遠いところからは岡山市の岡山聖オーガスチン教会の信徒の方々、当教会・中国語教室・太極拳教室のご友人・ご知人など初顔の方々も訪れてくださり、さらにお手伝いをして下さるなど、今年も去年以上に大勢の方が集まってくださり、大盛況の下に無事に終了しました。

 また今年も13時から恒例の太極拳の演武があり、毎年、形を変えた演武は新鮮さがありました。また太極拳の先生による高等な演武もあり、注目を浴びていました。

 今回も前日から、多くの教会員、中国語教室・太極拳教室の先生、生徒の方々のご協力があって、準備や用意がとてもはかどり、夜には作業が終わり、大変助かりました。

 今年も賑やかで、スタッフは忙しく、うれしい悲鳴となりました。また、無事に滞りなく進行・終了することができ、神様に感謝、来ていただいた皆様、お手伝いをしてくださった皆様、ご寄付・ご献品やお祈り、支援・協力してくださった皆様方に心より感謝、感謝です。

 ありがとうございました。








2015年11月11日(水)ほっこりカフェ後の第2部「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」講話とほっこりカフェ

 2015年11月11日(水)に「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」講話(テーマ「文字から見えてくるもの」)が開催されました。

 参加者はクリスチャンの8名、ノンクリスチャンの3名の方々の合計11名でした。
 
 今日の「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」の講話では、テーマは「共におられ、背負ってくださる神様」で、神様とは
まず、「唯一の神」「創造主なる神」「全知・全能の神」「遍在する神」「永遠なる神」「義の神」「聖なる神」「愛なる神」などの性質を持っておられる方ということを説明しました。
 また神様は「共におられる神様」であることも強調し、夜回り先生水谷修氏の実話を通しての「神様が共におられる」ということの話、「砂の上の足跡」の詩を紹介し、神様は背負ってくださる神様であること、私たちは神様にも人にも支えられ、背負われている存在であることを話しました。

 特に、今回は「共におられる神様」として、マーガレット・F・パワーズ作の「砂の上の足跡」の詩を朗読しました。

ある晩、男が夢をみていた。
夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。
 そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。
 どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。 ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。
 人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。
 すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあるのだった。
 しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだった。
 すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。
「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。
 しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。
 私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」
 神は答えられた。 「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。
 あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」

 この詩には深い背景があります。ある時、マーガレットの夫のポールと娘のポーラが水難事故に巻き込まれ、彼女も彼らを助けようとして腕を折り、夫と娘が重傷で集中治療室で寝ていた試練の時に、看護士が夫に向かって「この詩をお読みすれば、きっと励ましになると思うの」と読んでくれたという詩を彼女が聞いて、非常に驚きました。
 それは彼女が若い頃に作った「フット・プリント(足跡)」という詩だったからです。
 
 この詩は1964年にマーガレットによって書かれた詩なのですが、その後、彼女が引っ越しの時に行方不明になって、それがいつのまにか誰かの手によって「作者不詳」ということで発表され、有名になってしまいました。
 それがこのような形で彼女や夫を励ます詩となって戻ってきたのです。その後、夫と娘は奇跡的に助かり、回復しました。
 
 彼女自身「私は過去の経験から、このような辛い時期には主が私たちを背負って歩いてくださることを知っていました。これまでも私たちを背負ってくださいましたし、今も、私たちを背負って歩いてくださっているのです」と告白しています。
 
 また聖書においても、次のように言われています。
「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:3,4)。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
            (マタイによる福音書28章20節)

「『その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1章23節)

 今も、これからも神様は辛く、苦しい時には私たちと共にいて、背負って歩いてくださることを覚えたいと思います。
 




 
 またバザーが近づき、バザーの案内看板を出し、バザー準備などをしました。
 ほっこりカフェでは美味しい、干し柿と柿の差し入れがあり、ほっこりして感謝でした。
 






 
 次回のほっこりカフェは11月18日(水)14時半から開催します。
 コーヒー、紅茶などを飲んで、お菓子を食べながら、おしゃべりしませんか。
 また第2部として、15時半から「聖書から人生を学ぶ」(聖書箇所 マタイによる福音書24章14節〜30節の「タラントン」のたとえ)を開催します。

 人生の悩み、問題、苦しみなどを共に話し、質問したりして、気持ちを楽にしませんか?
 初めての方も大歓迎です。どうぞ、お気軽にお越しくださいませ。
 お待ちしております。

2015年11月4日(水)ほっこりカフェ

 本日のほっこりカフェではお客様4名、スタッフ5名の9名が出席しました。

 カフェでは恒例の「み言葉の宝石」(9)を紹介し、少し説明しました。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(新改訳聖書 イザヤ書41章10節)
 
 このみ言葉の背景として、紀元前586年、イスラエルは大国バビロンに滅ぼされ、民は捕らえ移された。その絶望的状況の中で神が民にこの慰めと励ましの言葉をかけました。

 H・B・ストウ(1811〜96)はこのみ言葉に影響を受け、彼は「アンクル・トムの小屋」を描きあげました。 
 この本はアメリカの奴隷解放運動に大きな影響を与え、奴隷として
のさまざまな苦しみに信仰をもって耐えたトムの姿を描いています。

 その中でトムはこう語る。「おらが女房や子供から引き離されて、
売られちまったとき、ほとんど打ちのめされましただ。もうなんにも残ってないような気がしましただ。
そのときです、主がおらの傍らに立ち『恐れることはない、トム』と言ってくださいました。それから主はこの哀れなおらの心のなかに光と喜びをもたらし、すっかり気持ちを落ち着かせましただ。」

 私たちは日常生活の中で「恐れ」がいっぱいあり、具体的には人の目・顔色や他人の評判・評価に対する恐れ、失敗に対する恐れ、拒否・拒絶に対する恐れ、将来に対する恐れ、死に対する恐れなど、ぬぐいきれない「恐れ」があると言えます。

しかし、聖書には「恐れるな」というみ言葉が365回あると言われています。ですから、神様は1年365日ある毎日、「恐れるな」と私たちに語りかけてくださっているのです。
 何故、恐れる必要がないかと言えば、神様が共にいてくださるから、神様が味方となって、守り、支え、一緒にいてくだるからと言えるでしょう。
 
 神様は私たちが何かに恐れ、不安になる時には、「恐れることはない、大丈夫、心配しないで」といつも語って、勇気づけてくださることを覚えたいものです。
 
 またほっこりカフェでは初めてバザーに出す試作品、手作りお菓子「若あゆ」を披露しました。味も形もよく、好評でした。





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次回のほっこりカフェは11月11日(水)14時半から開催します。
 コーヒー、紅茶などを飲んで、お菓子を食べながら、おしゃべりしませんか。
 また同日15時より、第2部「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」という講話を開催します。
 どなたでも参加できます。1部参加のみ、また2部参加のみも可能です。出入りは自由です。お気軽にお越しくださいませ。id:nskk-

2015年10月28日(水)ほっこりカフェとバザー案内

 本日のほっこりカフェではお客様3名、スタッフ4名の7名が出席しました。
 カフェでは恒例の「み言葉の宝石」(8)を紹介し、少し説明しました。

「空の鳥をみなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」 (新改訳聖書 マタイによる福音書6章26節)

 小説家の太宰治の「鴎(かもめ)」によると、このみ言葉は、 
「私は、あれで救われたことがある、と言おうと思ったのだが、どうも照れくさくて、言えない。・・・・(このように語る)キリストの慰めが、私に、『ポーズでなく』生きる力を与えてくれたことが、あったのだ」と述べるように、非常に影響を受けた聖句でした。

 「空の鳥たちは、この世の基準で見たときに、役に立つようなことを何もしていません。
 ですが、そんな鳥たちでさえ、神様は養って下さるというのです。働くことができなくても、はっきりと目に見える形で世の中の役に立つことができなくても、『自分には価値がない』などと思い込む必要はありません。
 空の鳥を愛して下さる神様は、何もできないわたしたちも必ず愛して下さるに違いないのです」(片柳弘史神父)と言われている通りです。
 
 このことは言葉を変えて言うと「たとえ何もできなくてもあなたは生きているだけで価値がある。神様はあなたを価値ある者としてみて、大切に思い、評価している」というメッセージを送られているのでしょう。

 またほっこりカフェでは差し入れの北海道産の美味しいメロンロールケーキを頂き、感謝でした。




 11月15日(日)バザー(11時〜14時 聖餐式は9時)のご案内も申し上げます。
 雨天決行で、美味しい食べ物・飲み物、その他日用品などが満載です!
  13時頃、太極拳の演武(牧師夫妻も参加)もあります。
 
どうぞ、お待ちしています。

次回は11月4日(水)14時半から開催いたします。

 初めての方も大歓迎です。どうぞ、お気軽にお越しくださいませ。
 お待ちしております。

2015年10月14日(水)第2部 「聖書から人生を学ぶ」とほっこりカフェ

 本日、ほっこりカフェの第2部「聖書から人生を学ぶ」(フィリピの信徒への手紙2:1〜16)を開催しました。
 今回はノンクリスチャン3名、クリスチャンの初めて来られた方を含む10名の合計13名が参加しました。

 聖書の箇所で、「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい」(2:16)というみ言葉が実践的に非常に難しいという話になりました。

 「不平」というのは原語のギリシャ語では「ぶつぶつ言う」、または「つぶやく」(口語訳)というような意味を持ち、「理屈」というのは「理屈をこねる」、つまり、屁理屈を言うという意味があります。
 
 私たちは日常生活の中で、何かあるたびに「ぶつぶつ」文句や愚痴を言い、自分自身の中で理屈をこねて、自己を正当化することはないでしょうか。
 もちろん、私たちは弱い存在ですので、不平不満を言わずに生きていくことは非常に困難なことですが、しかし、一つ一つ「ぶつぶつ」言うことを減らしていき、感謝することを習慣化していきたいものです。

 また「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(2:3)という「へりくだる」とは、「謙遜」と同じ意味をもち、謙遜とは物腰が低い、やわらかいというものではなく、自分は赦された罪人であるということを認めることだと思います。
 
 このことは片柳弘史神父の以下の言葉が参考になります。
 「宗教者は大きく言って、①神を絶対化して謙遜になる人と、②神を信じている自分を絶対 化して傲慢になる人の2種類に分かれます。
 本物の宗教者は神の偉大さの前に跪き、 偽者の宗教者は自分が偉大だと思い込んで人を見下すのです」
 
 神様を絶対化して、自らが赦された罪人ということを覚えて、神様の前にひざまずいて、へりくだり、謙遜になっていきたいものです。

 分かち合いの中でご感想やご意見を伺った時に、ある出席者の方から、昔はぶつぶつ言っていたが、食卓に聖書のみ言葉「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな時にも感謝しなさい」というみ言葉のカードを置いて、そのみ言葉を見ていたら、ぶつぶつ言うことがなくなったと言われたことが本当に印象的でした。
 また他の出席者から、イエス様のへりくだりは神様が人になるというもので、人のへりくだりとは違う質のもので、イエス様の人間とへりくだりは天と地ぐらい差があり、私たち人間ではできないものという感想もなるほどと思わされました。







 今回のほっこりカフェでは差し入れの美味しい北海道教旭川聖マルコ教会の婦人会の「手作りにんじんパウンドケーキ」や岡山産ぶどうや神戸のお菓子を皆でいただき、楽しくおしゃべりして、ほっこりして感謝でした。
 出席者はお客様7名、スタッフ5名の12名が出席しました。


 10月21日(水)のほっこりカフェはお休みです。次回は10月28日(水)14時半から開催いたします。

 初めての方も大歓迎です。どうぞ、お気軽にお越しくださいませ。

 お待ちしております。