2015年12月9日(水)ほっこりカフェ後の第2部「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」講話とほっこりカフェ

 2015年12月9日(水)に「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」講話(テーマ「極めて良かったと見てくださる神様」)が開催されました。

 参加者はクリスチャンの6名、ノンクリスチャンの2名の方々の合計8名でした。
 
 講話ではまず、1.自己評価の低い私たちとして、以下の話をしました。

 ある男性は「建設現場で働いていたとき、現場で何が起こっても、どんな理不尽なことを言われても、そこを指さし『神は見て、良しとされた』と小声で言って、黙々と働き続けていました。
 彼は神様が自分自身に対して「極めて良いもの」と言ってくださったのを受け入れて、何の文句も言わず、いつも嬉しそうにしていたのでした。
 
 しかし、このように言われても多くの人は「自分はそうではない」との認識があり、私たちは「神様がそんな思い入れをしてくださっても、私なんか…」と腰が引けてしまうところがあるかと思います。
 さらに自分自身を低く見て、「私なんて欠点だらけの人間です」「私はこんなつまらない人間で、どうにもならない」「どうせこんな私なんか」と思いがちではないでしょうか。
 
 ある教派の牧師も最初、そのように自己評価が低く、「自分をだめだと思います。最低の人間だと思います。なんて思いやりがないんだろうと思います。
 自分がない、性格が悪い、ねじ曲がっている、などなど自分を見ると、もううんざりします。
 でも、神様は極めて良かったと見てくださいます。そういうわたしで良いと見てくださいます。こういう条件がそろっているから良い、とはおっしゃらない。こんな自分はだめだ、という自分を神様は、そのままで良い、とおっしゃるのです」と述べて、自分を受け入れ、自己評価を高めていったと告白しています。
 
 実際に躁(そう)うつ病の方がそのように神様が「自分を極めて良かった」と見ていてくださる神様の愛に感謝し、神様の愛を知って喜びました。もちろん、それで病気が治ったわけではなく、彼は積極的に仕事ができるようになりました。

 そうは言っても現実的には世の中は頑張って何かをする、一生懸命努力することに価値がある、また何かをする行為のほうが大切で、しかも、業績・功績をあげるようことがこの世の価値観として定着しています。
 考えてみれば、人間の歴史や文化はすべて人がなにをしたか、しなかったかの記録の蓄積で、よくできたことには賞賛の声が与えられ、逆に失敗にたいしては評価の対象にしないと言えるでしょう。
 それは「できた、できなかった」、「した、しなかった」で人間を評価する基準がすっかり当たり前になっている証拠です。
 ですから世の中はなにもしないでただ「そこにいる」だけでは、怠け者、無力、人生の敗残者としてしか評価しないと言えるでしょう。
 最近、自己評価が低いのは特に小学生、中高生で、徐々に低年齢化していると言えます。

2.学級崩壊立て直し請負人の菊池省三先生

 先日、「世界一受けたい授業」という番組で、学級崩壊立て直し請負人の異名をとる、菊池省三先生が出演されていました。
 子供達がいじめや授業放棄など学級崩壊を起こすのは、「自分に自信がないから」で、自分に自信がなくなると、投げやりになってしまい、そこから 暴言、喧嘩、暴行などに発展します。 
 そこで、菊池先生は子供に自信を持たせることにしました。
 先生は自信を持たせるために、「ほめ言葉のシャワー」というものをしていて、学校のクラスの中で日替わりで一人の児童に対し、クラス全員がその子の良いところを発表することを行っています。
 毎日、学校の帰りの会などで、日替わりでその日の主役になる生徒が壇上に上がり、クラスのみんなでその生徒の良いところを伝え合うという活動です。

 1クラス30人の生徒がいるクラスなら30人のほめ言葉が1人の生徒にシャワーのように浴びせられ、年間5巡ぐらい回ってくるので、1人150回ほめられるわけです。それが30人の生徒に対して行われるので、教室には4500回のほめ言葉が飛び交うのです。
 そこから自己肯定感は高まり、自分に自信を持つようになります。

 クラスにはプラスの言葉ばかりが飛び交うので、生徒たちの間には良好な関係が生まれ、クラスは温かい雰囲気になります。
 
 また菊池先生は、「認める」こととして、たとえば、先生が子どもの写真を撮って教室に貼り、見ているよ、とメッセージを送るということもしています。
 
 他にも『あふれさせたい言葉』 と『あふれさせたくない言葉』を書き出して貼りだしてありました。
『あふれさせたい言葉』は(ありがとう、嬉しいなど)、『あふれさせたくない言葉』は(きもい じゃま、死ね等)を児童に考えさせて教室に貼り出し、悪い言葉は言わないようにしているそうです。
 
 菊池先生は作文の添削をする時も、訂正箇所に赤字を入れるのではなくて、良い場所を探して褒める添削をしていました。
 例えば「、」や「。」などの句読点が丁寧に書かれている1マス下げて段落をつけている、等、何でもないようなことでも、良い場所を見つけて褒める(認める)ことをしていました。
これらを実践することで、子ども達が自信をつけ、落ち着いた態度になるそうです
 先生は現在も「ほめことばのシャワー」や「認める」「いい言葉をかける」という取り組みをされているとのこと。
 このような取り組みは個人にも、家庭的にも、社会にも教会でも取り入れるべきではないでしょうか。

3.いるだけで、いてくれるだけでいいんだよ

 あるひきこもりの青年が「小さいときから親はいつも僕に、勉強しろ、頑張れと言い続けてきた。僕はその言葉に忠実であろうとした。でももうくたびれた。もし『お前がいるだけでいいんだよ』と言ってくれたら、僕はこうはならなかっただろう」と言いました。
 このことから人は「いるだけでいいんだよ」という言葉を聞くと安心感を与え、心配しているときほど、この言葉は特効薬のように私たちの心に染み入るのではないでしょうか。

 2008年に社会を明るくする運動”作文コンテストで最優秀賞になったクリスチャンではない酒井智香さんという中学生がおられます。
 その作文によると酒井さんは「中学受験と生徒会長の仕事と、精一杯がんばってきて、特に、中学受験に向かって、両親の期待にこたえたい!姉と同じ学校に行きたい!と、一心に努力していました。が、結果、不合格で、ショックを受け、ごはんも食べず、部屋に閉じこもり、(ずっと)泣いていたそうです。
 しかし、ある時、交通事故で生死の境をさまよい、なんとか命をとりとめた祖父が車いすでやってきて、「ちかちゃん、よかよか、大丈夫。ちかちゃんが元気でいてくれるだけで、じいちゃんはよかとぞ」と言われて、彼女は、祖父の言ってくれた「いてくれるだけで」という言葉に、不思議なくらいホッとした」そうです。
 悲しみに暮れ、元気がない酒井智香さんは、祖父の姿、また「ちかちゃんが元気でいてくれるだけで、じいちゃんはよかとぞ」というすべてを肯定し、受け入れる言葉かけに感動し、そこから立ち直り、元気を取り戻し、心配していた家族も元気になって、笑顔になったということでした。

4.もうすでに、認められたものなのだと言われる神様

 聖公会のもうすでに亡くなった牧師は「理解されたいとは、ほんとうは、自分が他者によって、認められたいということです。もう少し正確に言えば、自分が正当なものであると他者によって認められたいということに他なりません。
 イエス様が命をかけて、私たちに明らかにしてくださったことは、お前たちは、あなたは、もはや、認められたいという欲求のもとに生きる必要はない。その欲求から解放されて、すでに認められたものとして生きてゆきなさいということです。そのままのあなたが、イエス様の十字架と復活を通して神様によって認められているのだ――これが福音です」と述べています。
 
 私達に引きつけて考えてみると、私達は人生を歩むうちで一生懸命していても人から認められず、また時に周囲からも理解されず、悔しい思いや辛い思いをしたりすることが度々あります。
けれどもたとえ、周囲の人が理解してくれなくても、しかし、神様だけが私たちを認め、受け止め、神様は「その気持ちはわかるよ」と言って全面的に肯定してくださるのです。
 そして神様はあなたは「生きてて良い」「あなたは、そのままでいい」「いるだけでいいんだよ」「存在自体がよいこと」だと神様は私達にメッセージを送ってくださるのではないでしょうか。

5.聖書の全面的肯定

 創世記1章31節に神様は「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と書いてありますが、他の創造物は「良しとされた」と書いてあるが、しかし、人は「極めて」と付け加えられている。
 神様にとって一人一人の人間は、「良しとされた」以上の極めて良いものということなのです。
そして、私たち人間は「極めて良いもの」として造られたということは、神様がこの世界、そして私たちを、よいものとして肯定していて下さるという意味があるのです。
ここではすべてのもの、人の存在そのものが肯定されています。
 またこのことは表現を変えて言うと、神様は、神の目から見て、私たち人間を素晴らしいものとして見ていてくださっているということです。

 そのように現代に生きている私たちにも同じように神様も、「あなたは、そのままでいいんですよ。私はあなたをそのように造りましたよ」「いるだけでいいんだよ」と言ってくださるのです。
 私たちは「私という存在自体を受け止め、一人の人間として肯定」してくださる神様がおられるということを覚えて、私達は「もうすでに、認められた」者として自分自身の人生を肯定し、受け入れて生きていきたいものです。







 本日のほっこりカフェではお客様3名、スタッフの5名が出席しました。
 差し入れの美味しい柿を皆で食べて、明るく、楽しく、おしゃべりして、ほっこりして、感謝でした。

次回のほっこりカフェは今年最後のほっこりカフェで、12月16日(水)14時半から開催します。

 コーヒー、紅茶などを飲んで、お菓子を食べながら、おしゃべりしませんか。

 また第2部として、15時半から「聖書から人生を学ぶ」(聖書箇所 フィリピの信徒への手紙4章4節〜9節)を開催します。

 人生の悩み、問題、苦しみなどを共に話し、質問したりして、気持ちを楽にしませんか?

 初めての方も大歓迎です。どうぞ、お気軽にお越しくださいませ。

 お待ちしております。