2015年10月7日(水)ほっこりカフェ後の第2部「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」講話とほっこりカフェ

 2015年10月7日(水)の午後3時過ぎより、「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」講話(テーマ「文字から見えてくるもの」)が開催されました。

 参加者はクリスチャンの9名、ノンクリスチャンの4名の方々の合計13名でした。
 
 テーマが「文字から見えてくるもの」ということで、漢字の字から、学ぶべきことが多くあります。
 言葉という文字は言(こと)の葉と書き、葉っぱのように繰り返され、再生するという意味をもっています。
 また言霊という言葉がある言葉に魂、霊が宿っているという考え方もあり、つまり、良いことを言ったら、良いことが起こり、こうなりたいと言ったら、何でもなれるというエレルギー、力を持っています。

 今回はそのことについて実話を通して、紹介していきたいと思います。

1. 辛いから幸いへ、幸の字

  辛いの漢字は辛苦、辛辣、辛口、辛抱など、辛の付く言葉は、どれも辛そうで、辛いは「からい」とも読みますが、辛い味覚は痛覚と近い「辛味は痛味」と言えます。
 
 しかし、「辛」の文字に、「一」を、加えた漢字が、「幸」。辛いの「辛」を一本足すと「幸」になります。
 その一つとは何でしょうか。
 それは足りないものを数えるのではなく、今あるものを数えること、今、幸せなことを数えること、それが辛いものから、幸せな気持ちに変わると言えるでしょう。
「幸せを数えたら、今すぐ幸せになれる」(ショーペンハウエル)と語られている通りです。

 このことから「辛いのは、幸せになる途中」とも言え、「辛いという状態は、幸せに至る一歩手前」ということになり、今は「幸せになる途中だから辛い。この辛い気持ちに幸せの一のかけらを足していく旅が人生」ということになるでしょう。
 
 もう一つ違う視点から、「幸せ」って言う字をよく見ると漢字の「十」と「辛い」っていう字がくっついて見えます。
 そこから、「十個」の「辛さ」を得て初めて「幸せ」を得られるって言うことなのかもしれません。
 食べるものが無い辛さ、死への悲しい辛さ、人を傷つけて悲しませた時の辛さ、過ちを犯した時の辛さ、傷つけられた時の辛さ、などなど多くの辛さを経験して、様々な「辛さ」を経験して、そのものの本当の大切さに気付いていくものだと思います。
 そして、本当の大切さに気付けた時に、人は、「幸せ」を心で感じることが出来るようになると思います。
 その意味で「辛さ」は、本当大事と言えます。

2.「難」という漢字

 苦難、困難、災難、聖書では艱難という言葉があり、全て不幸に感じられる4つの漢字と言えます。
 しかし、この「難」という漢字に「無」という漢字を紐付けてみると「無難」となる。つまり、苦難・困難・災難が無い人生のことを「無難な人生」という。
 無難な人は存在しなく、他の人から自分を比べると無難な人生に見えるかもしれませんが、本当に無難な人なんて存在しないでしょう。
 それでは、その「難」が「有る」ということを漢字にしてみると、
「有難」「ありがたし」と読みます。

「難」が有ることは「有難い」ということです。

 苦難・困難・災難があることなんて普通は嫌なはずで、しかし、難が有ることを「有り難し」というのです。
 何故でしょうか。それは 難があることで人は成長し、大きくなれる。優しくなれる。痛みを知ることができ、同情することもできます。だからこそ、難はあればいいということなのです。


「難」が有ることは「有難い」
 
 この事を実際、実証した絵売りの河村武明(かわむらたけあき)さん、通称、「たけ」という人がいます。
 彼は34歳で2001年10月に突然、脳梗塞で倒れ、48時間後に救出されたものの、言語障害聴覚障害、右手麻痺、失語症という重い後遺症を残しました。
 以前は京都の地元バンド「たけかめ」のヴォーカルとギターを担当、ライブ活動を行い、CDの売り上げも伸ばしていましたが、しかし、病気によって、音楽を聴く耳、歌を歌う声、ギターを弾く右手、そして詩を考える言葉という最も大事なものを、わざわざ選ぶようにして持ち去ってしまったのです。
 彼は「なぜ自分がこんなことに?? 声の出しかたがわからない。言葉を忘れてしまった。右半身が動かない」。
 しかも,排泄は人任せ,食事は鼻からチューブで、ベッドの上でぶざまな姿を見せるだけで、34歳で人生は終わった。これ以上,生きたとしても、何ひとつ、いいことはないだろう。「もう死んだほうがましだ」と、繰り返し絶望が襲った。
 しかし、深い絶望があったけど、ある言葉によって慰められた。
それは以前から知っていた宇宙学の詩「天地に風雨あるが如く、人生また順逆を免れず、順にして驕らず、逆にして尚その逆たることを感謝し、己の生業に精励努力せよ。必ず天の導きあり、神の助あり」という詩です。

 これは人生はいい時も悪い時がある。いいときに感謝することはあたり前 うぬぼれなく、つらいときこそ感謝する。すると神の助けがあるという意味です。
「難」が「有る」から「有難う」で、困難の時こそ「ありがとう」という意味で、この障害に無理やり感謝し、「ありがとう」と思い続け、オムツ姿やけど「ありがとう」と思い続け、右手が動かないけど「ありがとう」と思い続け、助かったことを後悔したけど、「ありがとう」と思い続けました。
 彼は「ありがとう」と毎日、毎日、思い続けたのです。

 もちろん、最初は心が込もっていない感謝だったのですが、「ありがとう」と毎日、毎日、思い続けました。
 すると、発病してから二か月ほど経ったある日、「絵でも描こう」となんとなく思い、安いスケッチ・ブックと筆を買い、残った左手で筆をもつと、言葉はなかなか出てこないのに、筆ならスラスラと躍るように描けたのです。
こ の発見に感動して、毎日毎日、絵の勉強本を見ながら、無邪気に絵を描いていて、絵を描くことが楽しい日課になって、絵は少しずつ、上手になっていきました。
 言いたいことがあって、それを詩にして、その詩にあう絵を描くようになった。
 そう考えてみれば、絵を描くということは、曲を作るときと同じだったことに気づき、歌とギターから言葉と筆にもち替え、ふたたび表現できることは、彼の生きる希望になったのです。
 彼は今の苦しさも困ることも、実はありがたいと感謝することで、「難」が「有る」から「有難う」ということを実感したのです。


3.吐くの「吐」という文字

  
 人間は誰しも「弱音を吐く」もので、日常生活で努力し、難題にぶつかった時に「しんどい」「辛い」「なんで私ばっかり」と何かしら弱音を吐きます。
 その「吐く」という文字。
「吐」という漢字を分けると「口」と「土」という漢字になります。「土」という漢字は「+」と「−」に分けることができ、吐くと言うのは、「口」から「+」であるポジティブなことと、「−」であるネガティブなことの両方を出すという意味があります。
 弱音を吐きながら良い事も吐き、弱音を吐き続けることによってゆっくりとネガティブ「−」なことを減らしていけばいいのです。
 徐々に「−」が減ってなくなったら、漢字が「叶」という漢字に変わらないでしょうか。
 弱音を吐いて、いつか叶う。それが「吐」という意味で、だから弱音は吐けばいいのです。
 しかし、前向きになるために、「ー」(マイナス)なことは少しずつ取り除いていくと、そうすると(夢が)「叶う」ようになるのです。

4.涙と泣の文字から

 1歳10ヶ月で髄膜炎にかかり、その後遺症で聴力を失った元筆談ホステスで、東京都北区議会選挙でトップ当選を果たした、斉藤里恵さんという女性がおられます。
 ある時、斉藤さんはお店の資金繰りがうまくいかず、店を閉めてしまったある社長から相談を受けました。
 店を閉めてから、涙が止まらない毎日を過ごしているという社長の告白に対して、斉藤里恵さんは社長に「『涙』が止まれば笑顔に『戻』り、『泣』くのをやめれば『立』ち直れる」と筆談でアドバイスしたそうです。
 彼女は漢字の「涙」と「泣」の二つ文字の「さんずい」部分を取り除いて、「戻」「立」と文字を変換したのでした。
 その後、その社長は立ち直り、「目に涙はもうどこにもなく、ただただキラキラと輝いていた」そうです。

5.聖書の語呂合わせ

 聖書ではこのような日本語の文字を分解して、言葉を変えて、意味づけるということはないですが、しかし、聖書では語呂合わせや言葉合わせのような考え方が良くみられます。
 たとえば、創世記2:7で
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。

 ここで「土」と「人」とは、ヘブライ語で語呂合わせになっていて、「土の塵」を原材料にして、人がやがて土に還る運命を持つ、はかなき者というニュアンスが含まれます。
 しかし同時に、神に命の息を吹き入れられ、しかも、神の口から人の鼻へ息を入れられたと書かれることで、両者の親密な関係が示唆されています。

次に出エジプト記2章10節で
「王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。』」

エレミヤ書1章11〜12節で
「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。』「主はわたしに言われた。『あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。』」
ここで「アーモンド(シャーケード)」と「見張っている(ショーケード)」の語呂合わせが見られる。
 このように聖書では言葉遊び、語呂合わせすることにより、わかりやすく、言葉を巧みに使っています。

6.聖書の言霊的な考え方
 
伝道の書10章12〜15節で、

「知者の口の言葉は恵みがある。 しかし愚者のくちびるはその身を滅ぼす。 愚者の口の言葉の初めは愚痴である、またその言葉の終りは悪い狂気である。
  愚者は言葉を多くする、 しかし人はだれも後に起ることを知らない。だれがその身の後に起る事を告げることができようか。 愚者の労苦はその身を疲れさせる、 彼は町にはいる道をさえ知らない」 
 ここで「知者の口の言葉は恵みがある」の一句には非常に深い意味があります。
 
 それは「恵み(ヘーン)」というヘブライ語には、恵み、優しさ、好意と言う意味があります。つまり知者の内側から口を通して出てくる言葉には、恵みと優しさがあって、人を生かして行く建設的な力があるという意味です。
 
また、創世記1:3で
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」という箇所があります。

 ここで神ご自身が言を発せられると、一切の物事が動き出し、神様のみ言によって出現した世界は、ことごとく神の言霊によって活かされ、秩序づけられ、建設的に発展していくのです。  
それはイザヤ書55:10〜11(口語訳)で
 「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、 種まくものに種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。 わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」で語られる通りです。

 私たちも神様の子であり、人は神様に似せて造られたと言われている通り、本質的には私たちは神様の性質を持っていると言えます。
 そのように考えると、私たちが発する言葉も力があり、言葉によって、人を生かし、傷つけるような力・エネルギーを持っていると言えるでしょう。
 私たちはそれだからこそ、言葉に気をつけ、言葉を吐くことに慎重になり、言葉の重大性、言葉に魂が宿っているぐらいに思い、日常生活で言葉を選んで生きていきたいものです。














 
 第1部のほっこりカフェでは、美味しい差し入れの栗まんじゅう、手作りういろう、手作りしそジュース、クッキーなどを皆で頂き、ほっこりしました。
 参加者はお客様8名、スタッフ4名の合計12名でした。

次回のほっこりカフェは10月14日(水)14時半から開催いたします。

 また第2部として、15時半から「聖書から人生を学ぶ」(皆で聖書を読んで、人生を学んでいくことを目的にし、聖書を読んで、牧師の解説、質問などを含んで約30分)を開催します。

 人生の悩み、問題、苦しみなどを共に話し、質問したりして、気持ちを楽にしませんか?

 初めての方も大歓迎です。どうぞ、お気軽にお越しくださいませ。

 お待ちしております。