2015年10月7日(水)ほっこりカフェ後の第2部「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」講話とほっこりカフェ

 2015年10月7日(水)の午後3時過ぎより、「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」講話(テーマ「文字から見えてくるもの」)が開催されました。

 参加者はクリスチャンの9名、ノンクリスチャンの4名の方々の合計13名でした。
 
 テーマが「文字から見えてくるもの」ということで、漢字の字から、学ぶべきことが多くあります。
 言葉という文字は言(こと)の葉と書き、葉っぱのように繰り返され、再生するという意味をもっています。
 また言霊という言葉がある言葉に魂、霊が宿っているという考え方もあり、つまり、良いことを言ったら、良いことが起こり、こうなりたいと言ったら、何でもなれるというエレルギー、力を持っています。

 今回はそのことについて実話を通して、紹介していきたいと思います。

1. 辛いから幸いへ、幸の字

  辛いの漢字は辛苦、辛辣、辛口、辛抱など、辛の付く言葉は、どれも辛そうで、辛いは「からい」とも読みますが、辛い味覚は痛覚と近い「辛味は痛味」と言えます。
 
 しかし、「辛」の文字に、「一」を、加えた漢字が、「幸」。辛いの「辛」を一本足すと「幸」になります。
 その一つとは何でしょうか。
 それは足りないものを数えるのではなく、今あるものを数えること、今、幸せなことを数えること、それが辛いものから、幸せな気持ちに変わると言えるでしょう。
「幸せを数えたら、今すぐ幸せになれる」(ショーペンハウエル)と語られている通りです。

 このことから「辛いのは、幸せになる途中」とも言え、「辛いという状態は、幸せに至る一歩手前」ということになり、今は「幸せになる途中だから辛い。この辛い気持ちに幸せの一のかけらを足していく旅が人生」ということになるでしょう。
 
 もう一つ違う視点から、「幸せ」って言う字をよく見ると漢字の「十」と「辛い」っていう字がくっついて見えます。
 そこから、「十個」の「辛さ」を得て初めて「幸せ」を得られるって言うことなのかもしれません。
 食べるものが無い辛さ、死への悲しい辛さ、人を傷つけて悲しませた時の辛さ、過ちを犯した時の辛さ、傷つけられた時の辛さ、などなど多くの辛さを経験して、様々な「辛さ」を経験して、そのものの本当の大切さに気付いていくものだと思います。
 そして、本当の大切さに気付けた時に、人は、「幸せ」を心で感じることが出来るようになると思います。
 その意味で「辛さ」は、本当大事と言えます。

2.「難」という漢字

 苦難、困難、災難、聖書では艱難という言葉があり、全て不幸に感じられる4つの漢字と言えます。
 しかし、この「難」という漢字に「無」という漢字を紐付けてみると「無難」となる。つまり、苦難・困難・災難が無い人生のことを「無難な人生」という。
 無難な人は存在しなく、他の人から自分を比べると無難な人生に見えるかもしれませんが、本当に無難な人なんて存在しないでしょう。
 それでは、その「難」が「有る」ということを漢字にしてみると、
「有難」「ありがたし」と読みます。

「難」が有ることは「有難い」ということです。

 苦難・困難・災難があることなんて普通は嫌なはずで、しかし、難が有ることを「有り難し」というのです。
 何故でしょうか。それは 難があることで人は成長し、大きくなれる。優しくなれる。痛みを知ることができ、同情することもできます。だからこそ、難はあればいいということなのです。


「難」が有ることは「有難い」
 
 この事を実際、実証した絵売りの河村武明(かわむらたけあき)さん、通称、「たけ」という人がいます。
 彼は34歳で2001年10月に突然、脳梗塞で倒れ、48時間後に救出されたものの、言語障害聴覚障害、右手麻痺、失語症という重い後遺症を残しました。
 以前は京都の地元バンド「たけかめ」のヴォーカルとギターを担当、ライブ活動を行い、CDの売り上げも伸ばしていましたが、しかし、病気によって、音楽を聴く耳、歌を歌う声、ギターを弾く右手、そして詩を考える言葉という最も大事なものを、わざわざ選ぶようにして持ち去ってしまったのです。
 彼は「なぜ自分がこんなことに?? 声の出しかたがわからない。言葉を忘れてしまった。右半身が動かない」。
 しかも,排泄は人任せ,食事は鼻からチューブで、ベッドの上でぶざまな姿を見せるだけで、34歳で人生は終わった。これ以上,生きたとしても、何ひとつ、いいことはないだろう。「もう死んだほうがましだ」と、繰り返し絶望が襲った。
 しかし、深い絶望があったけど、ある言葉によって慰められた。
それは以前から知っていた宇宙学の詩「天地に風雨あるが如く、人生また順逆を免れず、順にして驕らず、逆にして尚その逆たることを感謝し、己の生業に精励努力せよ。必ず天の導きあり、神の助あり」という詩です。

 これは人生はいい時も悪い時がある。いいときに感謝することはあたり前 うぬぼれなく、つらいときこそ感謝する。すると神の助けがあるという意味です。
「難」が「有る」から「有難う」で、困難の時こそ「ありがとう」という意味で、この障害に無理やり感謝し、「ありがとう」と思い続け、オムツ姿やけど「ありがとう」と思い続け、右手が動かないけど「ありがとう」と思い続け、助かったことを後悔したけど、「ありがとう」と思い続けました。
 彼は「ありがとう」と毎日、毎日、思い続けたのです。

 もちろん、最初は心が込もっていない感謝だったのですが、「ありがとう」と毎日、毎日、思い続けました。
 すると、発病してから二か月ほど経ったある日、「絵でも描こう」となんとなく思い、安いスケッチ・ブックと筆を買い、残った左手で筆をもつと、言葉はなかなか出てこないのに、筆ならスラスラと躍るように描けたのです。
こ の発見に感動して、毎日毎日、絵の勉強本を見ながら、無邪気に絵を描いていて、絵を描くことが楽しい日課になって、絵は少しずつ、上手になっていきました。
 言いたいことがあって、それを詩にして、その詩にあう絵を描くようになった。
 そう考えてみれば、絵を描くということは、曲を作るときと同じだったことに気づき、歌とギターから言葉と筆にもち替え、ふたたび表現できることは、彼の生きる希望になったのです。
 彼は今の苦しさも困ることも、実はありがたいと感謝することで、「難」が「有る」から「有難う」ということを実感したのです。


3.吐くの「吐」という文字

  
 人間は誰しも「弱音を吐く」もので、日常生活で努力し、難題にぶつかった時に「しんどい」「辛い」「なんで私ばっかり」と何かしら弱音を吐きます。
 その「吐く」という文字。
「吐」という漢字を分けると「口」と「土」という漢字になります。「土」という漢字は「+」と「−」に分けることができ、吐くと言うのは、「口」から「+」であるポジティブなことと、「−」であるネガティブなことの両方を出すという意味があります。
 弱音を吐きながら良い事も吐き、弱音を吐き続けることによってゆっくりとネガティブ「−」なことを減らしていけばいいのです。
 徐々に「−」が減ってなくなったら、漢字が「叶」という漢字に変わらないでしょうか。
 弱音を吐いて、いつか叶う。それが「吐」という意味で、だから弱音は吐けばいいのです。
 しかし、前向きになるために、「ー」(マイナス)なことは少しずつ取り除いていくと、そうすると(夢が)「叶う」ようになるのです。

4.涙と泣の文字から

 1歳10ヶ月で髄膜炎にかかり、その後遺症で聴力を失った元筆談ホステスで、東京都北区議会選挙でトップ当選を果たした、斉藤里恵さんという女性がおられます。
 ある時、斉藤さんはお店の資金繰りがうまくいかず、店を閉めてしまったある社長から相談を受けました。
 店を閉めてから、涙が止まらない毎日を過ごしているという社長の告白に対して、斉藤里恵さんは社長に「『涙』が止まれば笑顔に『戻』り、『泣』くのをやめれば『立』ち直れる」と筆談でアドバイスしたそうです。
 彼女は漢字の「涙」と「泣」の二つ文字の「さんずい」部分を取り除いて、「戻」「立」と文字を変換したのでした。
 その後、その社長は立ち直り、「目に涙はもうどこにもなく、ただただキラキラと輝いていた」そうです。

5.聖書の語呂合わせ

 聖書ではこのような日本語の文字を分解して、言葉を変えて、意味づけるということはないですが、しかし、聖書では語呂合わせや言葉合わせのような考え方が良くみられます。
 たとえば、創世記2:7で
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。

 ここで「土」と「人」とは、ヘブライ語で語呂合わせになっていて、「土の塵」を原材料にして、人がやがて土に還る運命を持つ、はかなき者というニュアンスが含まれます。
 しかし同時に、神に命の息を吹き入れられ、しかも、神の口から人の鼻へ息を入れられたと書かれることで、両者の親密な関係が示唆されています。

次に出エジプト記2章10節で
「王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。』」

エレミヤ書1章11〜12節で
「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。』「主はわたしに言われた。『あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。』」
ここで「アーモンド(シャーケード)」と「見張っている(ショーケード)」の語呂合わせが見られる。
 このように聖書では言葉遊び、語呂合わせすることにより、わかりやすく、言葉を巧みに使っています。

6.聖書の言霊的な考え方
 
伝道の書10章12〜15節で、

「知者の口の言葉は恵みがある。 しかし愚者のくちびるはその身を滅ぼす。 愚者の口の言葉の初めは愚痴である、またその言葉の終りは悪い狂気である。
  愚者は言葉を多くする、 しかし人はだれも後に起ることを知らない。だれがその身の後に起る事を告げることができようか。 愚者の労苦はその身を疲れさせる、 彼は町にはいる道をさえ知らない」 
 ここで「知者の口の言葉は恵みがある」の一句には非常に深い意味があります。
 
 それは「恵み(ヘーン)」というヘブライ語には、恵み、優しさ、好意と言う意味があります。つまり知者の内側から口を通して出てくる言葉には、恵みと優しさがあって、人を生かして行く建設的な力があるという意味です。
 
また、創世記1:3で
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」という箇所があります。

 ここで神ご自身が言を発せられると、一切の物事が動き出し、神様のみ言によって出現した世界は、ことごとく神の言霊によって活かされ、秩序づけられ、建設的に発展していくのです。  
それはイザヤ書55:10〜11(口語訳)で
 「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、 種まくものに種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。 わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」で語られる通りです。

 私たちも神様の子であり、人は神様に似せて造られたと言われている通り、本質的には私たちは神様の性質を持っていると言えます。
 そのように考えると、私たちが発する言葉も力があり、言葉によって、人を生かし、傷つけるような力・エネルギーを持っていると言えるでしょう。
 私たちはそれだからこそ、言葉に気をつけ、言葉を吐くことに慎重になり、言葉の重大性、言葉に魂が宿っているぐらいに思い、日常生活で言葉を選んで生きていきたいものです。














 
 第1部のほっこりカフェでは、美味しい差し入れの栗まんじゅう、手作りういろう、手作りしそジュース、クッキーなどを皆で頂き、ほっこりしました。
 参加者はお客様8名、スタッフ4名の合計12名でした。

次回のほっこりカフェは10月14日(水)14時半から開催いたします。

 また第2部として、15時半から「聖書から人生を学ぶ」(皆で聖書を読んで、人生を学んでいくことを目的にし、聖書を読んで、牧師の解説、質問などを含んで約30分)を開催します。

 人生の悩み、問題、苦しみなどを共に話し、質問したりして、気持ちを楽にしませんか?

 初めての方も大歓迎です。どうぞ、お気軽にお越しくださいませ。

 お待ちしております。

2015年9月27日(日)第2回説教者交換日

 本日、今年2回目の説教者交換日で、高松聖ヤコブ教会より、角瀬克己司祭が倉敷聖クリストファー教会に来られて、聖餐式の司式・説教をして下さいました。
 説教者交換は瀬戸内伝道区内の活動で、教会の信徒との良き交流となり、感謝です。

 平野司祭は高松聖ヤコブ教会に行きました。

手作りゼリー↓

笑顔で↓

2015年9月16日(水)ほっこりカフェ後の第2部「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」講話とほっこりカフェ

 2015年9月16日(水)の午後3時過ぎより、「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」講話(テーマ「物事の見方・捉え方(を変える先には)」)が開催されました。
 
 参加者はクリスチャンの8名、初めて来られた方を含むノンクリスチャンの6名の方々の合計14名でした。

 講話ではものの見方、捉え方を変えることによって、大きな転換があり、人生が一変し、幸せな気持ちになるということを実話から説明しました。

 心理学・社会学博士・教育学博士の小林正観さんはある宿の経営者からこんな相談を受けたときの話があります。

「夕食後の後片付けをしたいのに、お客さんがなかなか席を立ってくれないんです。」
 小林さんは「宿の印象が悪いときはお客さんは食堂から無言ですぐに出て行きます。
 しかし、印象が良いときは食べ終わってもグズグズして、なかなか食卓から離れないものですよ」と言いました。
 この話を聞いてから、その宿の方は夕食後、お客さんがグズグズしているのを見て、幸せを感じるようになったそうです。
 小林さんは、何も解決していません。
 現状はグズグズのまま、何も変わっていないのです。
しかし、宿の経営者の「イライラ」は「幸せ」に変わったのです。
 そこから、コピーライターのひすいこたろうさんは「視点を変えれば、今すぐ幸せになることもできる。ものの見方ひとつで、世界は一変します」と語っています。

 また、物事の捉え方、着眼点、視点を変えると、違った答えが導き出されることあり、例えば、人には長所・短所があって、短所は否定的に捉えがちですが、短所も捉え方、着眼点・視点を変えてみるだけで、長所に変わります。

 たとえば、自分が短所で悩んでいたら、
短所:おせっかい  ⇒ 長所:面倒見がよい
短所:人見知りをする⇒ 長所:相手のことを気遣う
短所:頑固     ⇒ 長所:自分の思いを持っている
短所:せっかち   ⇒ 長所:行動力がある
短所:優柔不断   ⇒ 長所:物事をじっくりと考える
短所:いつも悩む  ⇒ 長所:いつもリスクを考えている、とても               慎重

 などなどこのように肯定的に思うと、気持ちが楽になることもあります。

 聖書でも逆転発想があり、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ福音書20:16)

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(マタイ福音書23章11節)

「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」と言われました』(Ⅰコリント12:9)
 
 このようなことから、物事を一つだけの視点・観点で見るのではなく、時に着眼点・視点・捉え方・見方を変えることも必要ではないでしょうか。
 






 また、本日のほっこりカフェではお客様8名、スタッフ5名の合計13名が出席しました。
 今回は初めて来られた方や、今日、誕生日が迎えられた方がおられ、手作りぶどうジュースゼリーを食べて、皆で誕生日のお祝いをして、ほっこりしました。




9月23日(水)、9月30日(水)のほっこりカフェは都合によりお休みです。次回は10月7日(水)の14時半から再開いたします。
しばらくお休みが続きますが、どうぞ、お間違えのないようにお願いいたします。また10月7日(水)15時より、第2部「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」という講話を開催します(約1時間)。参加費は無料です。
今回だけ、都合により第3の水曜日から、第1水曜日に変更します。

 どなたでも参加できます。1部参加のみ、また2部参加のみも可能です。出入りは自由です。お気軽にお越しくださいませ。
 お待ちしております。

2015年9月9日(水)第2部 「聖書から人生を学ぶ」とほっこりカフェ

 2015年9月9日(水)の15時半より、ほっこりカフェの第2部「聖書から人生を学ぶを開催しました。

 参加者はクリスチャンの8名、ノンクリスチャンの3名の方々の合計11名でした。
 
 今回の聖書の箇所は9月6日(日)に読まれた使徒書のヤコブの手紙1:17〜27節です。
 ヤコブの手紙の中で特に以下の箇所が印象に残りました。
「だれでも、…怒るのに遅いようにしなさい」(1:19)。
「御言葉を行う人になりなさい」(1:22)。
「舌を制することができず」(1:26)。

 聖書の分かちあいで皆さんの感想として出たこととして、私たちが日常生活の中で「怒り」を制御すること、「み言葉を行うこと」、「舌(言葉)を制すること」は非常に難しいという話になり、特に「怒らないこと」「悪い言葉を吐かない」ならば、平和になり、幸せになるという話になりました。
 

 人生の中で「怒り」や「言葉」を制御するには、深呼吸や距離を置いたり、怒りを抑えるために6秒を置くこと(理由 カーッと頭が沸騰するような怒りの感情のピークは6秒程度しかもたないので)が必要と説明しました。

 また、「み言葉を行うこと」について、ある信徒が日曜日の礼拝だけ意識し、その日だけ良きクリスチャンとなり、日曜日が終わると「み言葉」を意識せず、み言葉を行わないということをしてしまうという体験談を聞いて、そのようなことから平日も日常生活もみ言葉を意識し、難しいですが、日常生活もみ言葉の実践を心がけたいという話をしました。



 第1部のほっこりカフェはお客様5名、スタッフの4名の合計9名が参加しました。
 差し入れのおいしいお菓子、手作りシュークリーム(生クリーム・かぼちゃクリーム)を皆で食べて、歓談し、ほっこりしました。



次回のほっこりカフェは9月16日(水)14時半から開催します。
 コーヒー、紅茶などを飲んで、お菓子を食べながら、おしゃべりしませんか。
 また同日15時より、第2部「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」という講話を開催します(約1時間)。参加費は無料です。

 どなたでも参加できます。1部参加のみ、また2部参加のみも可能です。出入りは自由です。お気軽にお越しくださいませ。
 お待ちしております。

2015年8月26日(水)ほっこりカフェ

本日のほっこりカフェはお客様を含む5名、スタッフの4名の合計9名が集まりました。
 今回のほっこりカフェでは美味しいかき氷、手作りゼリー、差し入れの20世紀梨などなどがあり、大変、満足で感謝でした。
 話しに弾み、時間がすぐに立ち、ほっこりして、とても良かったです。
 













 「み言葉の宝石」(7)は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)です。
 
 このみ言葉は「万人の福音」とも言われるもので、また「小福音書」「黄金の聖句」(ルター)、「すべての星の中の太陽」(新島襄)とも言われる聖句です。
 父なる神様は御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡したほどに、私たち一人ひとりを愛してくださっていて、さらに「神は私たちのひとり 一人を、あたかも、私たちのただ一人だけを愛されるように愛したもう」(アウグスティヌス)ことに感謝です。
 
 

2015年8月19日(水)ほっこりカフェ後の第2部「幸せに生きる

 2015年8月19日(水)の15時より、ほっこりカフェの第2部「幸せに生きるためには―キリスト教的人生観」の講話(テーマは『利他主義と幸せ』)を開催しました。
 参加者はクリスチャンの9名、初めて来られた方を含むノンクリスチャンの4名の方々の合計13名でした。
 利他主義(りたしゅぎ)とは、自己の利益よりも、他者の利益を優先する考え方。あるいは、自分を犠牲にしても他人の利益を図る態度・考え方。平たく言うと他人の幸せを自分の幸せとすること。類似語は愛他主義、無私。対義語は利己主義。
利他主義」とは仏教用語のように見えるが、19世紀のフランスの社会学者による造語、アルトルイズム(altruism)の和訳です。

〔名言〕

「人のために骨を折れ、損得を越えて誠実であれ」(論語

「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(論語

「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(ヒンズー教

「他人を幸福にするのは、香水をふりかけるようなものだ。ふりかけるとき、自分にも数滴はかかる」(ユダヤの格言)

「人は得ることで生活(living)を営むことができるが、人に与えることで真の人生(life)を生きることができる」(ウィンストン・チャーチル

「与えることは最高の喜びである。他人に喜びを運ぶ人はそれによって自分自身の喜びと満足を得る」(ウォルト・ディズニー

「確実に幸福になるただ一つの道は人を愛することだ」(トルストイ

「他人の幸福を増してやるのに比例して自分の幸福も増す」(ベンサム

「愛されることは必ずしも幸福ではなく、愛することこそ幸福だ」(ヘッセ)

「幸福になろうと願うなら、自分を捨てて他人の幸福を願うことだ」(ラッセル)

「幸福になりたければ、人につくす喜びを生きがいにせよ」(カーネギー

「他人の幸せを考えるほど、自分も幸せになる」(コンサルタント福島正伸(まさのぶ))

アメリカの幸福度の研究結果〕

 アメリカの科学者の研究によると「良い行いをする」ことで喜びや達成感を味わう人は抗体力が強く、抗ウイルス遺伝子を持っており、炎症性遺伝子発現が低いことが分かりました。
 それに比べて自分だけ幸福を得るという人は炎症性が高く、免疫細胞も弱いことがわかったのです。
 つまり、人間の遺伝子は幸福感を得る方法によって、とても敏感に影響されるようです。
 例えば自分にご褒美を買うなどして、幸福感を得る場合と、人に何かをしてあげることで幸福感を得るのとでは、他人を喜ばすことで得る幸福感の方がより強いものであるということです。    
 そのような他人を喜ばせようとする善行は幸福をより一層深いものにし、さらに免疫力が高まることが証明されたということです。
 もう一つ、アメリカで60名以上の心理学者たちが数億円の予算を組んで、どうすれば人間性を向上させ、人が幸せになれるかを調査した結果、「自尊心、霊性、家族、良い結婚、友情」などが幸せな人生への鍵であり、希望、生きがい、正しい目標を追い求めることも人に幸福感をもたらすという結果が出ました。
 また、他人が幸せになるように手助けすることも、新しい人間関係、新しい希望を生み出し、幸福感を増すのです。そして何よりも感謝の心を持つことが、幸せな人生の大切な要素だと分かったのです。
 後半部分の利他主義である「他人が幸せになるように手助けする」ことは、新しい人間関係、新しい希望を生み出し、幸福感を増すということについて、認識し、意識すべきでしょう。

〔チリの鉱山での落盤事故の出来事〕

 2010年南米のチリの鉱山で落盤事故が起こり、地中深く閉じこめられた33人の作業員全員が、70日ぶりに無事生還したという事故は記憶に新しいことでしょう。
 チリ鉱山の地中深くでは、劣悪な環境にもかかわらず、作業員たちが驚くほどの団結力、協調性でサバイバルを続けたということでした。
 地上からのサポートもあるが、作業員には強力なリーダーシップを持った人物がおり、普段から互いに仕事仲間を思いやる寛容さと信頼関係が皆にあったからこそ、作業を分担するなど生活規律を守り、パニックにもならずに励まし合い、希望を持って生きてこれたと報じられている。
 報道では、彼らの心の支えとして、サッカーW杯のDVDや手紙などと共に、ローマ教皇から一人ずつにロザリオが差し入れられた。聖書も贈られ、毎日二回の祈りが日課だったという。
 彼らは救助を待つ間、互いを思いやり、規律正しく過ごし、救出用の掘削が完了した時、口々にこう言ったといいます。「自分は最後でいい。仲間を先に助けてくれ」と。
 皆が極限状態にありながら、人のこと、仲間のことを考えたことは美しく、だからこそ、世界中で感動を呼んだことでしょう。
 おそらく彼らは人のためという「良い行いをする」ことを強く持っていたことで、上述したようにストレスや疲労などへの抗体力が強く、抗ウイルス遺伝子を持って、炎症性遺伝子発現が低かったことが想像されます。

ブータンの考え方〕

 2012年、海外青年協力隊としてブータンの小学校で教師としている仁田明宏さんが、「今年3月、日本の教え子から卒業文集が送られてきました。その中に『3億円あったら、どうする?』というコーナーがあり、みんなが答えを書いています。その半分くらいが『貯金する』でした。今の日本の現状を映しているのでしょうが、あまりに夢がない答えです」と述べています。
 それで仁田さんは同じように、「ブータンの子どもたちに授業で『すごくたくさんお金があったらどうする?』と同じ質問をすると、すると、大半の子が『貧しい人にあげる』『親にあげる』など、自分以外の人を幸せに使うと答えたそうです。
 さらに仁田さんは「同じ子どもたちに『幸せですか』とも聞いてみると、ほとんどが『幸せです』と答えたのですが、理由は『家族と一緒にいられるから』『食べ物が毎日食べられるから』『学校に行けるから』。日本では当たり前と思われることばかりです」と語っています。
 ここから日本の子どもたちは3億円を自分のために使うことに対して、ブータンの子どもたちは、親や貧しい人たちにあげる、与えるという人のために使うということです。そのような与える精神が幸せと直結するということでしょう。
 
〔あるブータンでの出来事〕

 去年の暮れにテレビである23歳のタレント女性が幸せを求めて、幸せの国と言われるブータンの国のある絶壁の家に行って、本当の幸せと何かを求めるという番組がありました。
 彼女はその絶壁の家に行って、その家の6人家族のお嫁さんに「あなたは今、幸せですか」と質問し、逆にそのお嫁さんから「逆にあなたの幸せとは何」と聞かれました。
 そこでタレント女性は「私にとっても幸せは自分自身がタレントとして売れること、お金をそれなりに稼げるようになること」と答えました。
 彼女と同い年であるお嫁さんは「あなたは自分の事しか考えていない。私達にはそれは幸せじゃない。周りの人の事を考えず生きて、幸せなんて考えられないはずよ」と諭しました。
 その言葉はタレント女性にとって、目の覚める言葉で、彼女は「自分が幸せになればいいとか、自分にたくさん仕事が入ってくればいいとか、『自分が自分が』だったので、自己中心的な一方的な感じですね。家族に対しても」と涙を流しながら、悔いていました。 
 ここでブータンの人達の幸せ感は自分一人だけで得るのではなく、周りの幸せが自分自身の幸せで、それが本当の幸せであるということで、女性タレントの幸せ感と対極的にあることがわかります。
 この女性タレントは、番組で幸せというものを少しわかりかけてきたと語っているように、ここから自分視点の幸せから他人の幸せに少しずつ転換し、あるいはまた自分の事よりも他人のことを少しずつ優先していったことでしょう。

〔ロックフェラーの転換期〕

 石油王のロックフェラーは33歳で百万長者になり、43歳でアメリカ1の金持ちになって、53歳で世界の金持ちになったが幸せではなかった。55歳に彼は不治の病にかかり余命一年と宣告された。
 そんなある日、彼は検診のために訪ねた病院のロビーで、額縁の「与える人が、受ける人より幸せである」という言葉に釘付けになり、彼は瞬間全身熱くなり、涙があふれた。
 しばらくして、彼がいたロビーのまわりが騒がしいので振り向くと、病気の少女の親と病院側が入院の費用が払えないことで揉めていた。
 ロックフェラーはすぐ秘書を通して入院費を払い、名前を伏せ、その後、助けられた少女は奇跡的に回復し、その姿を見たロックフェラーは喜び、「私は今までこんなに幸せな生き方があるのを知りませんでした」と感激しました。
 今までの彼は「何百万もの富を築いたが、私はそれで幸せを得ることはなかった」と語っているとおり、ものが有り余るほど持っていたとしても、幸せ、満足感を得ることができなかったのです。
 しかし、与えること、人が幸せになることを自分の幸せとしたときに、彼は初めて幸福感を得ることができたのです。
 そこからロックフェラーは、分かち合いの生き方をしようと決心し、すると、病気も不思議と治り、彼は95歳まで生き、よい働きに尽力しました。
 彼の人生の前半期55年間は不幸せに生き、後半の40年間は幸せに暮らしたのです。

〔聖書の利他主義について〕

 利他主義、つまり、自分の事よりも他人のことを優先するということについては、聖書のフィリピの信徒への手紙2:3−5のみ言葉があります。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」
 ここで「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払われておられるのがイエス様で、そのイエス様は「自分自身の事より、自分自身の幸せより、他人のこと、他人の幸せを願い、求めておられました。
 そして、その生き方が本当の幸せということをイエス様は身をもって、教えられ、また「周りの人の事を考えず生きて、幸せがないこと」を聖書でもって、教えてくださいました。
 それだからこそ、「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた」(使徒言行録20:35)のです。
 ここでは「受けること(もらうこと)」と「与えること(あげること)」を比べ、「与えること(あげること)」の方が幸いである、と述べているのです。
 普通では、もらうことが幸いだとされるので、イエス様のこのみ言葉は常識と全く逆のことを主張しています。
 しかも、そうすることが幸いである、つまりそうすることによって恵み、より大きい満足あるいは喜び、幸せが与えられると述べているのです。与えることによって、より良いものが返ってくるという主張です。
 この事は先ほどのアメリカの幸福度の研究結果とつながっていると思われます。

 それでは「与えること」とは具体的に何でしょうか。
それは、物品や金銭が思い当たりますが、それらに限らず、第三者のために自分の時間を割いてあげること、手を差し伸べてあげること、その人が言いたいことを聞いてあげること、やさしい言葉をかけてあげること、あるいはその人に関心をよせてあげることなど、幅広い行動が含まれると思います。
 つまり、本来自分が所有しているモノやおかね、あるいは時間や知力・体力・精神力を第三者に与えることであり、自分自身の一部を何らかのかたちで他の人に分け与えることに他なりません(布施心、贈与の精神、あるいは利他主義)。
 そして、それらを与える対象は、個人の場合もあれば、特定の組織あるいは社会一般に対する場合もあるでしょう。
 そのように自分のことより、人に与えるという精神、見返りを求めない他人への利益を追い求めることは不思議と心が安らぎ、幸せな気持ちになるのです。

 もちろん、このように思うことはできても、行動、実践においては、なかなか困難で、難しいと言えるでしょう。
 しかし、私たちは少しずつ、与えるという積み重ね、また形から入って、少しの行動、具体的にはゴミ拾い、募金、笑顔、陰徳などなど、1mmからの実践を続けていきたいものです。
 私たちは自分自身の事より、人のことを少しでも思うこと、優先すること、注意すること、そして、「周りの人の事を考えず生きて、幸せなんて考えられない」こと、つまり、他人の幸せを思い、願い、行動することにあって初めて自分自身が幸せになるということを覚えて、今後、生きていきたいと思います。
 








 
第1部のほっこりカフェでは初めて来られた方を含むお客様6名、スタッフ5名の11名が出席しました。
 今回は久しぶりに始めて来られた方がおられ、皆で歓迎し、その後、皆でおしゃべりをして、差し入れの美味しい手作りケーキ、美味しいお菓子、美味しい手作り水ようかんなどを頂き、ほっこりして感謝でした。


次回のほっこりカフェは8月26日(水)14時半から16時まで開催いたします。
 コーヒー、紅茶、ジュースなどを飲んで、お菓子などを食べながら、おしゃべりしませんか。
 来られた方には「み言葉の宝石」(み言葉集)のプレゼントがあります。
 どなたでも参加できます。お気軽にお越しくださいませ。
 お待ちしております。

2015年8月2日(日)主教巡錫(巡回)日と堅信式について

2015年8月2日(日)に主教巡錫(巡回)日があり、倉敷に中村豊主教様と道子主教夫人が来られました。
 非常に暑い中でも多くの参集者があり、中国語教室の先生、生徒、そのご友人、ご知人などを合わせて30人が出席しました。
 またお二人の堅信者も与えられ、とても喜ばしいことでした。
 まず、中村豊主教様による聖餐式の司式・説教があり、式の途中には堅信式があり、礼拝後には喜びの祝会がありました。
 終始、暖かく、和やかな雰囲気で、聖餐式や説教で霊的な糧を得て、堅信式では按手の恵み、聖公会の入会という喜び、祝会では良き交わりをして本当に恵まれ、感謝の一日となりました。
 祝会の中で主教様によるお話もあり、お話の後には質問もあり、とても楽しく、愉快でした。
 祝会の終わり頃には堅信式を受けられたお二人の方に、教父母からプレゼントがあり、皆が笑顔となりました。
 主教様の説教題は「人を活かすパン」で、説教から私たちは命であるイエス様から生かされ、そして、人々から支えられているということを改めて、感じました。






































 
 また先月より、中型看板で「説教題」を掲載し、道行く人々に教会や礼拝についてアピールしています。